『満洲の移民村を訪ねて』足立茂藤英(1938)
九 怪奇な存在ハルビン郊外の天理村
ハルビンには前述の訓練所と共にもう一つ移民視察者の視るべきものがある。
天理教青年三十万人が一年一円の会費で今日を作ったと云われる天理教移民「天理村」である。天理村はハルビン東々北方三里半の地にあって、面積一千三百町歩※1、「生琉里」と称する部落が、新旧二ヶ所あり、支那街の城郭の如き四角な壁にかこまれている。ハルビン滞在の一日、北満経済調査所に勤むる同窓佐藤武夫君と共にここを訪れた。多分九月一日だった。村民全部と遠くハルビンからも信者が集まって、月始めの礼拝が教会堂で行われていた。僕等はうっかり教会に入って信者と一緒に妙な踊りでもやらされては大変と、暫く外の芝生で礼拝の終るのを待った。天理村に行くには、ハルビン郊外浜北線の小駅、三〇樹駅から軽便鉄道※2の便がある。この軽便は天理村経営のもので十万円の巨費を投じてついこの程開通したばかりのものである。天理村の経営が如何に大規模なものであるかは、この軽便によっても想像されよう。
ここの村長は橋本正治氏といい、助役に元代議士馬場義興という変わった人がいる。なおおどろいたことには、我が同窓昭和四年農科卒業の、只野整助君が農務主任として働いていたことだ。只野君は剣道三段の猛者で、在学中は多分剣道の主将をやっていた人だ。僕の二年あとだが名前だけは記憶がある。最初僕は農専の専門家として天理教に雇われた位に思っていた。ところがそうではない。バリバリの信者で農事よりも伝道師の方が本職だという。
昭和九年開村に当たって本部から派遣される直前までは郷里宮城県の気仙沼中学に教師をやっていた。信仰は少年時代からのことだという。夫婦揃って天理教の学校まで出ているというから驚くの外はない。
天理村では只野君を始め、見るもの聞くもの全く我々に奇異の感を与える。この村では村民を「村方」と称し、七四戸、三百余名の人がいる。この移民は入植後四ヶ年一人の退団者もないことを誇りとし、流石信仰の団体だけのことはあるといわれている。村民の住宅等は極めて粗末であるが、教会堂を始め、中央の諸設備はなかなか立派で、拓務省移民※3に遥かに優るものがある。高等小学校、診療所、電報、電話まであり、ハルビンには販売所や、連絡所を持ち、なかでもハルビンという大市場まで軽便鉄道を持っていることは羨ましい。また村には自警団が組織され、在郷軍人分会もある。いま学校には五人の教師に六九人の生徒が学び、診療所には一名の女医に、二名の看護婦と二名の産婆がいる。
次に営農状況を見るに、各戸ごとに西瓜、蔬菜※4の如き換金作物を一町歩宛作り、余る耕地は本部の直営で、小麦、大豆、粟、高梁※5の如き一般作および煙草の如き特殊作物を全部満人※6の雇用労力すなわち苦力※7を雇って経営している。今年の作は個人経営が六〇町歩、直営が四三〇町歩余りである。この営農計画は助役馬場氏の立案であるというが、直営の如きは驚くほど周密な計画の下に行われている。ピンからキリまでソロバンで割り出されているのだ。
この点が、天理村は企業的だ、地主的だ、搾取農だとひどく一部から非難される点である。天理村は信者の奉仕献納によって成立しているときいていたが、対外的には徹底した打算で動いていることは奇妙に感ぜられる。今夏天理村で生産された水瓜は天理水瓜と銘うってハルビン市内至る所に売られている。きけば新京※8、チチハルにまで進出しているとのこと、さてどれほどの採算がとれているか? 商人上がりの馬場氏が如何にソロバンが上手でも、農業は商業と勝手が違う。決してソロバン通りにいっていないことは天理財政の内幕がかなり苦しく、ハルビンあたりで天理村の支払いが悪いのどうのととかくの噂を生んでいることでも察せられる。最近は営農資金を満拓※9から借り出して一息ついているという。天理村は金がいくらでもある様に見えるが、それは表面だけのこと。これは天理教青年会本部で立替え、三年据えおき二〇年間の償還となっておりこれが無利子だ。一年一六五円位宛の償還になり、十町歩の土地代をも含むものらしい。
天理村は百万円計画で始まり、すでに七〇万円費やしたという。営農成績より村長の資金やりくり上手に世人は敬服している。軍関係では天理村を相当問題視しているとのことだ。ハルビン訓練所の飯島君の如きも糞みそに言っていた。曰く、
「只野君はロボットだ。馬場なんという男は大阪の綿布問屋上りじゃないか。あんな男に農業が判るものか、もう今秋あたりは暴動がおきて潰れて仕舞うから見ておれ」
と、一方馬場氏曰く、
「農業移民の理想型を自分が示して見せる。如何なる経済学者が束になって来ようとビクともしないぞ」と。
天理村が一面企業的な営業方針をとっていることは、ハルビンという大市場を控えている場所柄無理からぬことである。ただ過度の雇用労力の使用、特殊作物に偏するやり方は、勢い投機的になり、健実な歩みを必要とする農業移民には危険であろう。また我が満州農業移民の根本精神にも反することであるから注意を要する。
なお奇異に感じたことの一つは、この村の人たちのいずれも屈託のない、極めて楽天的な顔をしていることだ。信仰心によって安心立命を得ているせいかも知れぬ。かの国防を論じ国策をとなえ、眼じりをつり上げている拓務省移民にはややもすれば窮屈な悲壮な色が見られた。こういう、拓務省移民に慣れた僕等の眼には、何のくったくのないゲラゲラ笑っているこの村の人達の笑顔は気味悪い位に感ぜられた。何だか狐につまれた様な一日であった。
『満洲の移民村を訪ねて』足立茂藤英(1938)p20-23
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