法令文化協会『珍らしい裁判実話』友次寿太郎(1944)
刑事裁判のいろいろ
ニ、チフス菌事件(女医広瀬菊子)はどうなる?
天下の耳目を聳動した愛怨の女医、広瀬菊子にかかる、チフス菌饅頭事件は、神戸地方裁判所の第一審では、検事の無期懲役の求刑に対し懲役三年の判決であった。検事は刑軽きに失するとの理由で即日控訴を申し立て、事件は大阪控訴院に回され本年二月十四日と十六日の両日にわたって公判が開かれ、当日は第一審以来の弁護人たる瀧川弁護士のほか、特別弁護人として菊子の母校たる東京女子医専の大先輩、竹内茂代博士も熱弁をふるって弁護した甲斐もなく大阪控訴院では去る三月四日、懲役八年に処する旨の判決があった。
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世間の同情は翕然として菊子の一身に集まり、その反動として被害者佐藤幹男博士は不道徳漢の標本のように世間から非難の的となった。なる程、新聞の伝うるところによれば、被害者佐藤博士に対しては一毫の同情の余地はないが、菊子に対しては同情すべき幾多の事実があり、しかもこれが女性として当然あり得べきことのように伝えられている。その結果、世間は一途に菊子は「気の毒だ」とか「可哀想だ」とか理性を外にして同情の雨を降らし、八年の懲役は余りに酷だということに大体一致しているようである。果して八年の懲役は酷に失するか、あるいは一審の三年が至当か、あるいはまた検事の求刑たる無期懲役が妥当か、それは相当興味ある課題である。
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こうした男女間の経緯が原因となった刑事事件では、──殊に婦人の犯罪事件については──世人は盲目的に犯人に同情し、あるいは法律を超越して批判を加える結果、いかにも裁判官なるものが冷血漢に観られたり、検事が鬼に見えたりするのである。ところが法を司るものは飽くまで冷静でなければならぬ。また飽くまで理性によって事実を凝視透徹せねばならぬ。菊子の場合、何がかくも重刑を科せなければならぬかを専門的に観るとき、八年の懲役が必ずしも酷に失するものでないということも云い得るのである。それは本件の法廷に現れたところによると、殺意はなく傷害の目的は元夫たる佐藤幹男に対してのみであったようであるが、チフス菌を入れたカルカン饅頭は一箱に三十数個入っていたのであるから、仮に一人が二個ずつ食うとしたならば二十人近い人が、死はともかく、発病するの危険性は充分にあった。結果から見てもそれを食った幹男と、その実弟律男を始め小学教員九名が発病し、律男はそれが近因となって死亡した。菊子の当時の真意としては、かねて結婚同棲当時の小姑(幹男の妹)から「菊子姉さんは医者としては偉いかもしれないが家庭人としてはゼロだ」と罵倒され離婚の遠因を作ったので、怨みはそれにも及んでいたのではあるまいかという点である。しかも届け先は病院であるから、事務員も居れば看護婦も居るのである。それ等がみんな食ったとしたならば正に一大事であったことは想像するだに慄然たるものがある。私の知人である刑事専門の弁護士は、本件の一審のとき弁護を依頼されたのであるが、「本件は未必の故意(あるいは何人死ぬかも知れぬという予想)が充分認められるとのこと、犯人が医師であること、既に慰謝料を取っていること等からみて無罪の確信がないので弁護を断った」といっているが、こうした点から観ると第一審、第二審と通じて検事が無期懲役を求刑して止まなかった理由が想察されるのである。
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しかし本人は終始一貫殺すつもりはなかったといっている。すなわち菊子は幹男に欺かれ、生ける屍として葬られたことを無念に思い、幹男をチフス菌に感染させ、肉体的、精神的、経済的に苦痛を与えることによって、せめても復讐の思いを達しようと思ったに過ぎないといっている。弁護人もまたこの点に重点を置いて単純な傷害罪であると弁護している。殊に学術的に見てチフスの死亡率は一八%ないしニ〇%であるが現代の医学上、治るのが原則で、死亡することは例外であるとの学説を引いて殺意を否認したのである。これは如何にも苦しい弁護のようである。チフスは治るのが原則で、死亡は例外とするもなおかつその死亡率が一八%ないしニ〇%である以上は、医師として他人の生命に対する危険は充分知らなければならぬ。ところが菊子の場合、甚だ不利益な条件ではある。
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本件は目下上告中で、大審院が如何なる判決を下すかは予測する限りではないが、埼玉県の細菌魔の件は、それが医師なるが故に死刑の判決があったように記憶する。一個人に対する盲目的の同情と、社会の安寧秩序を保つための法律の運用とはその間截然たる区別がなければならぬ。そこに法律の威力と温情とが発揮せられるのである(これはその後に上告棄却となって懲役八年の刑が確定した)。(昭和十五年一月記)
『珍らしい裁判実話』友次寿太郎(1944)p196-199
※文章は読み易くするため適宜、旧漢字は新漢字に、ルビや送り仮名、仮名づかいなども訂しています。